台湾の歴史
台湾の歴史
  • 台湾地域の歴史は、史前時代、オランダ植民統治時代、鄭氏政権時代、清朝統治時代、日本統治時代、南京国民政府統治時代、台湾国民政府統治時代、そして現在の台湾総統選挙時代に区分される。

  • 台湾地域の名称の変遷

  • 台湾島は、東シナ海上にある島として古くから中国人にその存在を認識されていた。『漢書地理志』の中に「会稽海外有東鯷人,分為二十余国,以歳時来献見...」との記載があり、一部の学者は東鯷とは台湾を指す名称であると主張している。しかし漢代の中心地は中原と称される、長安及び洛陽を中心とする地域であり、漢朝の実質的な勢力は長江下流域に限られていたと考えられる[要出典]。従って福建省や広東省の沿岸地帯に至ることは非常に稀であり、その東岸にある島嶼を正確に記録したとは考えにくく、東鯷とは海上の島嶼群を漠然と示した名称であると考えられ、台湾の呼称と即断することは困難である。東鯷の中に台湾も包括されていたと考えるべきであろう。

  • 時代は下り三国時代の『臨海水土志』の中に「夷州在浙江臨海郡的東南,離郡二千里,土地無霜雪,草木不枯,四面皆山,衆山夷所居。山頂有越王射的正白,乃是石也。...部落間互不相属,各号為王,分割土地...」という記載があり、この場合の夷州は台湾を指すものと考えられる。しかし孫権伝説の中に、「夷州亶州在海中,長老伝言,秦始皇遣方士徐福将男童女数千人入海,求蓬萊及仙薬...」という記載もあり、地名としての夷州が台湾を指す言葉として確定してはいなかったとも思われる。しかし、『臨海水土志』には別に、

  • 夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆髡髮穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。有犬、尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作(弓)矢鏃。取生魚肉雜貯大瓦器中、以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之、以爲上肴

  • という記述もあり、このような土地はあらゆる意味で台湾島の特徴に合致し、またそれ以外でこのような地域を中国南部の沿岸の当初に見出すことは困難であり、台湾が少なくともこの時代には中国文明の認識する範囲に含まれていたことは明らかであると言える。

  • 隋時代の603年に書かれた文献には、台湾への探検の記録が記載されている。だが、当時の中国の文献において、台湾は琉球、留仇、流虬、琉求、瑠球と称されていた。その後隋末から宋までの600年間、中国の文献の中で台湾の記事が出現しない空白期間を迎える。元代になると再び記録に台湾が出現するようになる。明代の記録である『東西洋考』、『閩書』、『世法録』では台湾を東蕃,と呼んでいる。周嬰在が表した『東蕃記』では台員、何喬遠が表した[『閩書島夷誌』では大員、張燮の『東西洋考』では大円、何喬遠の『鏡山全集』では台湾、沈鉄的奏折の中では大湾のように様々な呼称が与えられている。また福建沿岸の民衆は台湾南部を毗舍耶、中原の漢族は台湾北部を小琉球と称している。

  • 明の太祖の時代になると琉球という呼称は沖縄・台湾双方を指す言葉として使われ続けたため両者の区別に混乱が生じ、沖縄を大琉球、台湾を小琉球と呼ばれるようになるが、その後名称に混乱が生じ、小東島、小琉球、雞籠、北港、東番のような名称が与えられていた。明末に鄭成功が台湾に建てた鄭氏政権時代になると、鄭氏政権は台湾を「東都」、「東寧」などと呼ぶようになった。

  • このような名称の変遷を経て、台湾が台湾と呼称されるようになったのは清朝が台湾を統治し始めてからのことである。ただし、台湾の語源は不明確で、原住民の言語の「Tayouan(タイユアン)」(来訪者の意)という言葉の音訳とも、また、「海に近い土地」という意味の「Tai-Vaong」や「牛皮の土地」という意味の「Tai-oan」などの言葉に由来するとも言われる。大員(現、台南)がタイオワンと呼ばれており、そこにオランダ人が最初に入植したためとも見られている。いずれにしても原住民の言葉が起源と見られ、漢語には由来していない。

  • 台湾の別称の由来

  • 台湾島には、フォルモサ(Formosa)という別称が存在し、欧米諸国を中心に今日も使用される場合がある。これは、「美しい」という意味のポルトガル語が原義であり、16世紀半ばに初めて台湾沖を通航したポルトガル船のオランダ人航海士が、その美しさに感動して「Ilha Formosa(美しい島)」と呼んだことに由来するといわれている。なお、フォルモサの中国語意訳である美麗(之)島や音訳である福爾摩沙を台湾の別称として用いることもある。

  • ちなみに、日本では高山国または高砂と称した。

  • 出典: ウィキペディア